「別れる」
すでに恒例となった逢瀬に心を弾ませて約束の宿へ行けば、すでに来ていた愛しい人は開口一番そう言った。
「は?」
今、なんと。
あまりの衝撃に彼が何と言ったのかわからなかった。
いや、彼ははっきりきっぱりと言ったのだから、その言葉はちゃんと耳に届いていた。しかし耳に届いていただけで脳には届いていなかった。
「別れるっつったんだ。You see?」
気の強い隻眼がにらみつけるように俺を見据え、そしてすぐにそらされた。
臆病者の恋
いつだって理論武装の恋だった。
理由がないと不安だった。
俺が一生懸命に考えた理屈をたった一つの笑顔でいつも吹き飛ばしてしまう幸村が憎くて、でも、それ以上に愛しかった。
俺が怖くて仕方ないものを幸村は気にも留めない。
面倒なものをすべて吹き飛ばして、本能のままに俺に向かってくる幸村が怖かった。だが、その潔さに何よりも惹かれた。どうやっても諸々の柵を断ち切れない俺をあざ笑うかのように幸村は自由で、何にも束縛されない強さを持っている気がした。
「政宗殿。某を捨てないで下され。某にはそなたが必要なのです」
踵を返して立ち去ろうとすれば背を強く抱きしめられ、俺には幸村の表情が見えなかった。見えるのは、らしくもなく震えながら俺を拘束する両の腕(かいな)だけだった。
「…でも」
何と言えばいいのかわからず、何度も飲み込んだ挙句に口をついてでたのは言い訳のような怯えと弱さばかりの言葉だった。
「おまえも、いつか俺を捨てるだろう」
びくり、と幸村の肩がはねてそれと同時に息も詰まるほどに抱きしめられた。いっそ苦しいほどの力強さにこのまま死ねたらきっと幸せなのだろうとぼんやり思った。
「捨てたりするはずがない!」
きつく俺を抱きしめたまま、幸村は頑是無い子どものように大きな声で叫んだ。
「某が、政宗殿を…この世の誰よりも慕い愛するお方を、捨てるはずがない!!」
「某が…某が、この幸村が、そなたを捨てたりすると思うてか!?某は…っ」
言葉が出てこないのか、もどかしげに首を振り、抱きしめるというよりはすでに縋り付くという表現のほうが似合いそうな様子で俺を抱きなおした幸村がひどくいとおしいと思った。思うとおりに行かずに駄々をこねる童のような幼さを、心底いとおしいと思った。
「ゆきむら」
名を呼ぶだけでこうも胸が締め付けられるというのは、どうしてだろう。
「それでも、俺たちは一緒に生きていけない。おまえが望まずともおまえが俺を捨てる日は必ず来る」
「それは…っ」
戦乱の世に生まれなければこんなにも強く誰かを愛することなんてできなかった。けれど、戦乱の世に生まれなければきっとこんなに苦しまなくて良かった。愛した人が敵国の武将で、いつか殺さなければならない日が来ることにおびえなくてすんだに違いない。
だが、結果として俺たちは戦乱の時代に生まれた。そもそもこの時代でなければ信州と奥州に生きる俺たちが出会うこともなかっただろう。なればこの時代に感謝をするべきなのかもしれない。だけど。
「俺は、おまえに捨てられることが…何より怖い」
言いたくなかった、と思った。
この言葉だけは、言いたくなかった。
俺はいったいどれだけの重荷をこの年下の男に負わせるつもりなのだろう。
それでも言わずにはいられなかった己の弱さを悔いて、政宗は唇をかみ締めた。
すがりつくように抱きしめた腕の中の愛しい人は、震えていた。
何かを求めるようにわずかに彷徨った政宗の腕は、結局何もつかむことなく、白くなるほどに硬く握り締められるだけだった。
そして今にも泣き出しそうな声音でけれど決して泣かずに震えていた。
「政宗殿」
そんな彼が、誰よりもいとおしいと思った。
「政宗殿、きいてくだされ」
この人と一緒に生きたいと思った。この人が一緒なら何も怖くないとまで思った。この人と共に在ることができればどんなにか幸せであるだろうと思った。けれど、それは決して叶わぬ願いであることも、知っていた。
政宗にとって奥州は決して捨てられぬものであり、幸村にとって信玄への忠誠は自身の根幹をなすものであることを、知っていた。
幸村も政宗も、それをなくしては自分ではいられないのだ。奥州王としての矜持も、武田が一番槍の誇りも、捨てられないものであった。それを捨ててしまえば政宗は政宗でなくなるし、幸村も幸村ではいられない。
「いつか、我らが殺しあう日が来たとしても」
それでも、愛したのだ。
求めずにはいられなかったのだ。
「某は最期まで政宗殿へ向かうこの想いを捨てることも断ち切ることも決してできませぬ」
片恋のままであったのなら、気づかぬ振りをして目をそらすこともできたやもしれない。けれど、成ってしまったのだ。俺の腕の中で震えるこの美しい人の心を手に入れてしまった。いまさら手放すことも、諦めることもできようはずがない。
「愛しているのです」
そして、気づいてしまった。この人でなければ意味がないのだと。
「互いを傷つけることしかできぬ想いだとしても。この戦乱の世に敵であるそなたを想うのがどれほど愚かなことだとしても。あきらめることなど、手放すことなど、できませぬ。たとえ、それをそなたがどれほど願うとしても」
身勝手な思いであることを知っている。そのためにどれほどの人を傷つけるとしても、どれほどの困難にさらされるとしても、それでも、譲れない想いであった。政宗のことばのほうが正しいことを知っている。けれど、それは幸村にとって正しいこたえではない。
「武田を捨てられぬ以上、某の言葉はそなたに空虚に響くかもしれませぬ。けれど、これが偽らざる本心なのです」
「…幸村」
呼ばれた名に心が漣を立てる。ただそれだけでこんなにも心を掻き立てる存在なんて、この人のほかにはいない。
「俺のこと、好きか…?」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
「何があっても?」
「はい」
幼い子が何度も親に愛を確認するかのようにぽつりぽつりと落とされた問いに迷いなくうなずき、その言葉が本心であることを誓うかのように政宗の腕を取り、硬く握り締められたこぶしをほどかせて骨ばった手に指を絡めた。
「政宗殿」
惹かれたのは戦場で見た揺ぎない信念を持った自身に満ちた姿であった。
けれど、心底いとおしいと思ったのは彼の持つ弱さを知った瞬間だった。
「某はこれから先、何があろうとも…最後の一呼吸を終えるその瞬間までを永遠と呼ぶのならば永遠に、政宗殿を、政宗殿だけを愛し続けましょうぞ」
たとえ妻を娶る日が来たとしても。そして子を成す日が来たとしても。変わらずに幸村の特別は政宗だけだ、とささやく。
ぎゅ、と握った手に力が込められた。応えるように俺も強く握り返す。
「ゆき…」
かすれた声が俺の名を呼ぶ。うつむいていた政宗殿ががそっと顔を上げ、身をよじり振り返る。それを覗き込んだ俺は、薄く涙に揺らいだ瞳が息を呑むほどに美しいと思った。
「信じても、いいのか?」
じっと、ひとつきりの目が一心に幸村を見つめる。幼子のように純粋で、偽りを許さぬ瞳。
「信じてくだされ」
「…」
「この槍がそなたの胸を貫き、そなたの刀が某の首を切り落とす瞬間が来ようとも、某はこの誓いをたがえぬ自信があります」
魂で恋をした。決して終わることのない、永遠の一目ぼれ。今でも会うたびあなたに惹かれている。そんな愚か者が、どうしてこの恋を断ち切ることができるだろう。
「俺も…」
「政宗殿?」
「俺も、信じたい。あんたを、俺を、…今の、この想いを」
未だ不安に瞳を揺らめかせながらも決して俺から目をそらそうとしない政宗殿がいとおしくて、いとおしくてたまらなくて、ただ、抱きしめた。抱きしめることしか、できなかった。
必ず来るその別れは決して二人に優しくはないけれど、この想いは。
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