たったひとつだけ願いが叶うとしたら。
…なんて、ありふれたたとえ話。
理想郷に降る雨
「なあ、あんたならなにを願う?」
遠乗りに行こう、と約束していたというのにあいにくの雨。濡れ縁に二人並んで他愛のない話をして、御八つには政宗手作りの団子。申し訳程度に盛られた小皿は政宗の前に、大皿に山盛りに供されたそれは幸村の前に。
「願い、ですか?」
「Yes、おまえならなにを願う?」
なにを、望む?
優雅なしぐさで茶を楽しみながら、わずかに笑う。そんな政宗を見つめながら幸村はぼんやりと思う。
なんと、うつくしいかたなのだろう、と。
政宗のように多くの言葉を知らない幸村は、ただ只管にそればかりを思う。春先とはいえ雨が降れば冬のごとくに冷える。こんな日にわざわざ濡れ縁なおらずともいいものだが、こうして外に触れたがるのは果たされなかった約束の未練なのかもしれない。冷えた掌を温めるようにそっと湯飲みを包む政宗の手は武人らしく大きくて骨ばっているのだが、書画を極め風雅を愛する故なのかどこか繊細だ。奥羽の雪の白さをうつしたようなその肌の色は時折幸村をたまらない気持ちにさせる。
「某は…」
無垢なる色を染めてしまいたい。新雪に足跡を残すがごとく。白き衣装に身を包む花嫁をわが色に染めるがごとく。この人の持つその色を、意のままに染めてしまえたら、と。
そんなことを時折思う。
「このまま、時が…止まれば、と」
己にも抑えがたきその衝動を持てあます。愛だとか恋だとか、そのように優しい思いではなく、焼き尽くさんばかりの紅蓮の激しさで幸村は政宗を求める。そのすべてがほしい、と。愛も執着も、憎悪ですらも。この人のもつすべてがほしい。愛しいけれど壊したくて、いっそ殺してしまいたいほどにこの人を求める。
こうして二人きりでいる間にはおとなしく微睡むこの執着も、離れてしまえばただ荒れ狂っては理性という脆き壁を突き破らんとして。こんなにも激しいこころがあったのか、と驚きながらも幸村はひそかにおびえる。狂気と紙一重のこのこころがいつの日か政宗を傷つける日をおそれる。いつか感情のままに醜い欲望をつきつけ、彼を失う日をおそれる。
「何一つ失うことなく、何一つ壊すことなく、何一つ亡くすことなく。某のこの想いの汚れる前に。某のこの想いで汚す前に。今、この時のまますべてが終わりを告げ永遠を手に入れることができたのなら、この上ない幸福かと存じまする」
純粋でいたい。政宗に向ける愛も欲も友情も執着も、殺意でさえも。醜い打算などの交わらない、生まれたままの純粋な感情でありたい。彼の強い光の瞳に恥じぬ己でありたい。
強くなる一方で止む気配のない雨を見つめて幸村は自嘲した。
「某は、今の幸福を守りたいがために変化を恐れる愚か者にござる」
幸村の言葉に一瞬悲しげに目を伏せた政宗は、切ない目でかすかに笑った。
「Utopia、だな」
「?」
「…あの花の名前、知ってるか?」
いつの間にか冷え切っていた湯飲みをことりと置いて、政宗がついと指差す先に在ったのはこの雨にもにじまない濃い色の花の木。
「桜…にはまだ早い季節にござるし、…梅か桃か」
桜以外の花の名も知っていたんだな、と失礼なことを内心思いながら政宗はうなずく。
「桃だ。…中国では、理想郷のことを桃源郷という。そこには、桃の花が咲き乱れているらしいな」
「…」
「だが、ここは桃源郷なんかじゃない。桃の花しか知らない其処とは違ってこの場所にはさまざまな花が咲く。常春である其処とは違ってこの場所は長い冬が訪れる。…桃源郷、理想郷だなんてそんなもの、どこにもありはしないんだ」
幸村が何も言わなかったのは何を言っていいのかわからなかったというよりは、政宗の横顔がどこか泣いているように見えたからであった。その肩を抱きしめたいと思ったけれど、政宗はそれを望んではいないのだろうと知っていた。
「…それでも、某は、政宗殿とともに在れる今この瞬間を幸福だと思いまする。桃源郷に非ずとも、今、このときを幸福だと、この瞬間が永遠なれと願うあまり、時が止まることを望まずにはいられませぬ。たとえうたかたであったとしても、ここは某の理想郷なのだと」
「…」
庭から視線を転じた政宗がゆっくり幸村に向き合う。
「…そうだな」
「政宗殿」
「だからこそ。うたかたとわかっているからこそ、今時を止めてしまいたいと願うおまえの望みを愚かと笑うことができないんだろうな」
きっと、俺もどこかでそう望んでいるから。
今度こそ耐え切れなくなって政宗を抱きしめた。この寒い日に外にいるために冷えてしまった身体。熱を分け合えば、ひとつになれる気がした。このわずかな温みがいとおしくてしかたなかった。
…雨はまだ、やみそうにない。
雨に降られ春だというのに冷たく濡れたこここそが二人の理想郷。
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