別に、その人でなくてもよかった。
俺を人として認めてくれるなら、誰でもよかった。
「佐助!」
でも、あのころ。
俺の名を呼んで手を差し伸べて笑ってくれたのはその人だけだから。
その日から、その人が俺の世界になった。
竜の旦那のことは嫌いじゃなかった。
むしろ、好意…というよりも、親近感のようなものを抱いていた。
敵同士だからゆっくり話したことはないけど、多分、俺とあの人は囚われてるものが似てる。
闇がなくては生きていけないもの。
光にすがって生きる術しか知らぬもの。
だから、憎しみは湧かず、ただこれから先も守るもののために生きねばならぬ青年を哀れに思った。
穏やかな表情で倒れながら、それでもしっかりとその左手には折れた槍を握り締めているところが、この上なくこの人らしい、と思った。
(旦那、望んだとおりに魂を燃やして竜の旦那と死合ったんだね。ねえ、楽しかった?ねえ、満足できた?ねえ、息絶えるときに何を思ったの?)
少しでも俺のこと、思ってくれた?
近づく気配に顔をあげれば、身体中に傷を負いながら、それでもしっかりとした足取りでゆっくりとこちらに歩いてくる青い竜。
「…」
彼は俺に視線をあてることもせずに、手にしていた何かを旦那の顔の横に置いた。
「何?これ」
「…槍だ。こいつの」
戦いの激しさに耐え切れず砕けた槍。よく見れば、竜の爪も2本しか残っていない。それも、すでに用を成さないほど無残な姿だったけれど。
「これは、こいつに必要なものだろう」
ぼろぼろになったそれを大切にかき集めた竜の旦那の思いが、切なかった。
なぜだかその姿を見るのが辛く、俺はあえて話をそらす。
激しさに耐えかねて砕けた槍に何かを重ねてしまうのかもしれない。
それが、何なのかは俺にはわからないけれど。
「ねえ、竜の旦那。あんた、痛くないの?止血は?そんな状態でよく動けるね」
「痛みは慣れてる。血はもう止まった。そして俺に倒れることは赦されていない」
「ふうん?」
淡々と言葉をつないでいた竜の旦那は、そこでようやくたった一つの目を俺に向けた。
「相変わらず、てめえは忍らしくねぇな。いいのか?てめえの主を殺した人間を前にして何もしなくて」
挑発、というよりは本当に不思議そうに言うので思わず笑ってしまった。
「俺は、あんたに手を出さないよ。それは俺の仕事じゃない。旦那が無二と定めて命をかけて戦って、たぶんこれは今の旦那にとって最高に幸せな死に方だから、自分に勝った竜の旦那には生きていて欲しいと願うと思うから、俺は何もしないよ」
「憎くないのか?」
俺が。
憎まれることに慣れてしまった哀しい青年はなおも不思議そうに問う。
「うん、憎くない。だから恨まない。だけど、俺はあんたを許さないよ。絶対に。そこだけは、譲れない」
憎いだなんて思えない。
怨めしいだなんて思わない。
だって、あんたは何も見ていないじゃないか。
そのたった一つの瞳に、もう、何も映していないじゃないか。
きれいな虚。
こんなところまで、俺たちは似ているね。
多分、今の俺の瞳も何も映していない。
竜の虚ほどきれいじゃないかもしれないけど、多分、抱えているものは同じだ。
いや、違う。
何も抱えていないからこその虚か。
憎しみよりも、むしろ哀れみを抱いていると言ったらこの誇り高い奥州の竜は怒るだろうか。
本当によく似た二人だった。
片や光しか知らず、片や闇を抱いて生きてきた人だけれど。
正反対に見えた二人の本質は、もしかしたら存外似ていたのかもしれない。
(ねえ、竜の旦那。あんたは可哀相な人だね。あんたにはまだ旦那が必要なのに、自分の手で壊してしまった)
たった一つきりの目に宿る光は変わらず鋭く強いものだというのに、そこには決定的に何かが足りない。
多分、俺にも竜の旦那にも、まだあの人が必要だった。
光が、必要だった。
昔、遠い昔に。
訓練を終え、忍として道具として在り始めたころ。
俺に光を教えてくれた幼子がいた。
世界が色づく瞬間を知った。
あの空を流れる白い雲はこんなにも美しかったか。
ざわめく木々はこんなにも力に満ちて輝いていたか。
吹き抜ける風はこんなにも軽やかに鮮やかだったか。
愚かにも、そのとき初めて世界に色があることを知ったのだ。
(こんなに綺麗なものを俺は今まで知らなかったんだ)
初めて、自分を可哀相だと思った。
それ、は。
別に、その人でなくともよかったのだ。
俺には“俺”を認めてくれる誰かが必要だった。自分でも気づかぬままに、求めていた、欲していた。
ただ無邪気に、笑って手を伸ばして、俺のすべてを受け入れてくれたのは、その人だった。その人だけだった。
だから、その瞬間から俺の世界はあの人になった。
多分、そんな風にこの人も、あの人のことを求めていたんだと思う。旦那がどうしてあんなにも竜の旦那を求めたのかは俺にはわからないけれど、これは間違っていないと思う。
だから、哀れに思う。この人は、これからどうやって生きていくんだろう。光のない世界に、もう一度光を見つけることができるだろうか。それだけの強さが、この人にあるだろうか。無明の闇を生き抜く力が、この人にあるだろうか。
「可哀相だね、竜の旦那。あんたはこれからも生きなくちゃいけない。あんたが大切だと思うものを守るためにこれからも戦わなくちゃいけない。あんたを哀れに思うと言ったら、怒るかい?」
「同情されるのは死ぬほど嫌いだが、てめえが相手なら腹もたたねえさ。どうせ、同じ穴の狢だ」
「うん、そうだね。ねえ、竜の旦那。俺はさっきあんたに憎まないし怨まないけど許さないって言ったね」
「…」
「でも、あんたは赦されていいと思うよ」
「言ってることがめちゃくちゃだな」
ふ、と竜の旦那が口の端を緩める。つくった表情ではない。でも、心からのものではない。そこには喜びも、悲しみすらない。ここにいるのはただの抜け殻。
「うん。でも、旦那はあんたがそんな目をしていることを嫌がると思うから。あの人はあんたが自分を殺したことなんて、これっぽっちも怨んじゃいないだろうから、きっと、あんたがそんな目をしていたら悲しむよ、本気で。そういう人だったから」
「…今日はやけに話すな、忍」
「最後だからね」
笑うと、竜の旦那は俺を一瞥してから息絶えた紅蓮の鬼に視線を転じた。
「Long goodbyeだ、真田幸村」
俺も、あんたとやりあうのは楽しかった。
小さくそうつぶやいて、それからその人はためらわずに背を向けて去っていった。
一度も、振り返ることはなく。
(その迷わない背中が、余計に悲しいのだとあんたはきっと永遠に知らないんだろうね)
別に、その人でなくてもよかった。
俺を人として認めてくれるなら、誰でもよかった。
あのころ。
俺の名を呼んで手を差し伸べて笑ってくれたのはその人だけだったから。
手をとったのなんて、それだけの理由。
でも、今は。
ほかの誰が俺を人として認めてくれても、いらない。
今の俺にはあの人以外の誰かの手なんて意味がないから。
だから。
壊れてしまった俺の世界は、二度と戻らない。
(ねえ、旦那。俺はどこまでも旦那に付き従うよ。だって俺は旦那の忍だからね)
あなたは俺のすべてでした。
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