・弟(中学三年生)×兄(高校二年生)
・伊達誕2009






ついてない一日の終わりに




財布を忘れた。
学校までは定期を使うから忘れたことに気づかなかったのだ。
今日は寝坊して弁当を作れなかったから昼飯がない。購買でパンでも買おうと考えていたのに、財布がなければ金がない。いったいどうしたものか。考え込んでいたら、野口英世が三人現れた。もちろん比喩だ。彼が現代に生きているわけがないし、そもそも三人もいるわけがない。そして道でもいい話だが俺は野口英世よりも夏目漱石の顔のほうが好きだった。
「こないだ借りただろ。ありがとな」
元親だ。そういえばこいつに三千円貸していた。なかなかいいタイミングで返してくれた。機嫌よく頷けば元親はにっかり笑ってから教室を出て行った。大方トイレにでも行くのだろう。野口英世を三枚重ねて折りたたみポケットにねじ込む。これで今日の昼飯代は手に入れた。

楽しみにしていた授業が時間割変更で大嫌いな授業になった。
島津の日本史が明智の生物に変更だ。体調不良という話しだが、どうせ昨夜のみすぎて二日酔いにでもなったのだろう。それにしても明智の授業とか最悪すぎるだろう。初授業のときに「伊達君、あなたおいしそうですね。クフフフフフ」などと言われたのはトラウマだ。


4限のザビーのリーディングが長引いたおかげで、購買はすでに人がいっぱいいた。人ごみはきらいだ。この長蛇の列をかきわけてまで昼飯を入手したいとは思わない。休み時間に校外に出るのは禁止されているためここで買わなければ昼飯抜きになるわけだが、空腹と人ごみの不快さでは、後者のほうが耐え難いだろうと判断して自販機でパックのジュースだけ買って教室に戻った。どうせ今日は部活も休みだ。授業が終わったらさっさと家に帰ろう。

5限は何の問題もなく平和に過ぎた。空腹の一番のピークも過ぎたし、あとは6限さえ乗り切ればいいんだ。そう自分を奮い立たせて授業にのぞむ。概ね平和な授業であった。平和すぎて眠たくなった。
授業は平和だったが、落とし穴があった。
「うん、そうだね。教科書72ページから78ページと、問題集56から63ページまで。あと、今から配るプリントが宿題。明日小テストするからちゃんとやってくること」
ブーイングが響く教室の中、数学の竹中が満足そうな表情をしていたのが印象的だった。あいつはドSに違いない。

今日の俺はとことん厄日らしい。
夕方になって忘れていた空腹がよみがえってきた。情けない気持ちで廊下を歩いていたら、担任の前田にあった。ちなみに夫のほうだ。
「おう、伊達、いいところに!」
いやな予感はしたんだ。
「悪いが手伝ってくれないか。この資料を40部ずつコピーして、コピーが終わったら一部ずつ、5枚一組にしてホッキチスでとめておいてくれないか。俺は今から職員会議があるんだ」
いつでも豪快な担任は申し訳なさそうな顔をしながらもこちらに拒否権はないらしく強引に資料を俺に押し付ける。
「本当は慶次に手伝わせようと思ってたんだが、逃げられてな。…ああ、そうだ。マフィンはきらいか?今日、まつが調理実習で作ったのをくれたんだが、手伝ってくれる礼におまえにも二個やろう。俺の分は三つだ」
そう言って彼は急ぎ足で職員室に向かった。
俺は残された資料とマフィンを見比べてため息を吐く。めんどくさい雑事をおしつけられてしまった。だがこういう単純作業はきらいじゃないし、何より、まつ先生のマフィンを食べられるのは嬉しい。学校の先生にしておくのがもったいないほどの料理上手なのだ。


結局、帰宅したのは7時過ぎだった。
散々な一日だった。ため息をつきながらキッチンに立つ。父は出張で、母は実家だ。といっても夫婦仲が悪いというわけではない。母方の祖父がたおれたときいてあわてて実家に戻ったら、たんなるぎっくり腰だったらしい。明日には帰ってくるはずだ。
手早くチャーハンとスープを作り晩飯にする。
そういえば寝坊したから朝ごはんもちゃんと食べていない。これが今日最初で最後のまともな食事だ。

食べ終わって食器を片付け、宿題にとりかかる。数学はあまり得意ではない。どちらかといえば文型なのだ。教科書と問題集はそれでもなんとかなったが、竹中手製のプリントが難関だった。彼の意地の悪さを示すように難しいのだ。だが、これを解けるのなら本当に理解できているということにもなる。性格が悪くてドSな先生だが、悪い教師ではないのだ。

なんとかプリントを終えたときには11時を過ぎていた。
風呂は好きだが、この時間になるとゆっくり入る気にはならない。しょうがない、今日はシャワーだけで済ませるか。少し高めに温度設定したシャワーを浴びれば疲れがとれるようにも感じた。気持ちがいい。うっとりと眼を閉じてしばらくその心地よさを楽しんでから頭や身体を洗った。


今日は散々な一日だった。
財布の中身を確認してからかばんの中にいれる。明日こそは忘れないようにしなくては。それか寝坊をしないようにしっかりとアラームをかける。いつもは携帯のアラームだけなのだが、少し考えてから目覚まし時計をセットした。宿題も片付けたし、終わったプリントもちゃんとファイルにはさんでかばんにいれた。時計を見る。時刻は11時53分。いつもならもっと遅くまで起きているのだが、今日はもう寝よう。
そう思って部屋の明かりを消して布団に入り、眼を閉じた。


♪〜


その瞬間、枕元に置いた携帯が鳴り響いた。こんな時間に何の用だ。非常識なやつめ。無視しようかと思ったが何せ枕元で鳴り響くのだ。うるさくて眠れない。しかも鳴り止む気配もない。あきらめて手にとってディスプレイをみる。意外な人物からの着信に数度目を瞬かせてから慌ててボタンを押して電話に出る。
「…はい」
『兄上でござるか?』
聞きなれた声に口元をほころばせる。これは政宗の携帯なのだ。確認せずとも政宗以外の誰が出ると言うのだろう。
「Yes, I am。…こんな時間にどうしたんだ?もう消灯の時間を過ぎているだろう」
電話の相手は修学旅行の真っ最中であるはずの弟だった。確か消灯は10時半だったと思う。修学旅行の夜に真っ正直に寝るような輩は少ないだろうが、幸村は普段から夜11時に寝るような健全な中学生なのだ。この時間に起きていることは珍しい。
『はい。ですが…兄上のお声を聞かないことにはどうにも落ち着かなく、先生方の目を盗んでこっそり電話をかけてしまいまいた』
「同室のやつに迷惑かけてないか?」
『同室は佐助なので問題ないでござる!』
苦労性の幼馴染の顔を思い浮かべ苦笑する。家が隣同士なため物心つく前からの付き合いで、破天荒な幸村によく苦労をかけられている。
「はは、あんまり苦労かけるなよ。…旅行は楽しいか?」
『はい。けれど兄上にお会いできないのが苦痛でたまりませぬ。早く帰りたい…』
きっと電話の向こうで幸村は眉を八の字に落として情けない顔をしているのだろう。見なくてもわかる。昔からブラコンの気があるこの弟は政宗と離れることをひどく嫌がる。そんな弟を疎ましく思っていた時期もあるが、今となってはただ弟がかわいくてしょうがない。
「まったく。…明日には会えるだろう?ちゃんと旅行楽しめよ」
『はい。…兄上』
「どうした?」
『日付を超えました』
時計をちらりと見れば、蛍光塗料の塗られた時計の針は確かに長針が少し右にずれていた。
「ああ、そうだな。今日の夕方には会える」
『兄上』
「?」
『誕生日、おめでとうございまする』
「あ、今日って…」
『兄上の誕生日にござる。一番にこれが言いたくて、かような時間に電話をかけてしまいまいた。修学旅行さえなければ直接言えたというのに!』
「直接でなくても…嬉しい。Thank youな」
『兄上…』
「明日もまだ旅行はあるんだろ。今日はもう寝ろ。それで、明日…帰ってきて元気な姿を見せてくれよ。……俺も、はやくおまえに会いたい」
『!』
「じゃあな、幸村。Good night and you have a good trip!」

なれないことばを使ったのが気恥ずかしくて慌てて電話を切る。電話の向こうで幸村が何か言いたそうにしていたが気にしない。携帯を閉じて布団の中にもぐりこむ。顔がにやける。今日(眠らないと日にちは変わらない気がするから実際には機能の出来事でも今日と言ってしまう)は散々な一日だった、と思っていたがそうでもないらしい。弟からの電話一つでこんなにもうかれる自分に呆れるが、いやな気分ではない。
(早く帰ってこいよ幸村)


昼過ぎには母が実家からもどってくるはずだし、夕方には父が出張から帰ってくる。夜は政宗の誕生日を祝ってご馳走だろう。幸村が帰ってきたらたくさん話をしよう。修学旅行の話を聞いて、俺のときの旅行と比べよう。それから俺のついていない一日の話をしてやって、久しぶりに一緒に寝るのもいいかもしれない。きっと幸村は喜ぶだろう。
そんな楽しい一日を想像する。なんだか竹中のテストにも耐えられる気がしてきた。そうだ、時間割変更で今日が明智の生物になったのだから、明日は島津の日本史が受けられるだろう。朝はちゃんとおきて弁当を作って、天気予報では明日は晴れるらしいから、元親と一緒に屋上で食べよう。きっと気持ちがいい。

明日が待ち遠しくてわくわくする。
きっと最高の一日になるに違いない。
(きっと、幸村のおかげだ)







君が笑ってくれる。だから今日はいい一日。



BACK