はじめてみたとき、男は覇気の塊に見えた。生き生きとした表情で二槍をふるい情け容赦なく敵を屠っていく姿。どれほど槍をふるったのか、あたりに自身以外の生者がいなくなったのを見届け。
男は、こどものように、笑った。

きっとあの男は自分と同類なのだろうと哀れに思った。いくさばの熱に浮かされ狂気に包まれるままに獲物をふるい、命を喰らう。狂気に身をゆだねることでしか自分を保てない、哀れな生き物なのだろう、と。


その後幾度かいくさばでまみえ、刃を重ねる機会を得た。
男は高揚して笑い、俺も感じたことのない高ぶりに笑った。
肌を刺すような心地よい狂気だった。



狂気という狂喜



「真田源次郎幸村にござる」

戦場を離れた男はどこまでも無邪気で素直で、一言であらわすのなら、こどもだった。
勢力を伸ばしてきた織田や豊臣を警戒しての武田との同盟。
使者として奥州にやってきた真田幸村は、戦場で会ったそのままのようにも、まったく別の人物のようにも見えた。

使者として幾度か男が奥州を訪れるたびに他愛のない話をして、命の取り合いではない手合わせをして、ごくあたりまえの友人のように過ごした。
年齢が近いこともあってか、真田幸村と過ごすのは純粋に楽しかった。
甘味が好きで、その中でも一等なのが団子。酒も弱くはないが、あまりに酔いすぎるとその場ですぐに寝てしまう。声がでかくてじっとしているのが苦手で、ちょっとしたことでも心から感心し、笑い、怒る。
真っ当な人間だ。
少なくとも、俺よりはずっと。

ただ、そのどこまでもまっすぐな瞳だけは戦場で見たそのままのもので、それがひたすらに恐かった。


きっとこの男は、自覚がないのだ。
自分が狂っていると知らないのだ。
だから、いくさばでも平生でも、同じ顔で笑うことができるのだ。

自覚のない狂気ほど恐ろしいものはない


真田幸村という人間を好ましく思っている。しかし時折感じる得体の知れなさは心底俺をおびえさせた。
「政宗殿はいくさばでお会いするときとはまったく雰囲気が違いますな」
何の折だったか、真田幸村はそう言って花を生ける政宗を不思議そうに見た。
「いくさばでは夏の稲妻の如き荒々しさであるというのに、平生の政宗殿は…人にはなつかぬ猫のようだ」
「…稲妻の対比が猫か。もうちょっとマシなもんにしろよ」
「うぅ…。では、竜と猫ではどうであろうか」
「まあ、…ちっとはマシだな。で、そのココロは?」
「竜も稲妻も人には手の届かぬ神のような…この世のものに非ざるが、猫は手を伸ばせば届く、現世のものにござる」
不思議な御仁だ。
そう言った真田は政宗の存在を確かめるように手を伸ばし頬に触れ、瞳をじっと見つめたままに口付けを落とした。

我に返った真田幸村が申し訳ありませぬだとか破廉恥だとか叫んで、その話は結局うやむやになったのだが。
政宗にしてみれば、いくさばと平生と同じ顔で無邪気に笑うことのできる真田のほうがよっぽど不思議だった。
人を殺すときと団子を食べているとき、どうして見せる笑顔が同じなのだ。
どうしてそんなに無邪気に笑えるのだ。


一瞬だけ触れ、すぐに離れていってしまった唇のかさかさとした感触をたどるように唇を指でなぞる。
自分たちは恋仲というわけでもない。それなのに、抵抗もせずにあの男の口付けを受けた自分が解せない。避ける余裕も、逃げる時間も、あったというのに。なぜ、自分は微動だにせず、ただあの男の瞳を見つめていたのか。
「…」
嫌悪はなかった。そこにあるのは戸惑いと、正直に認めてしまうのなら一瞬で離れたことへの寂しさ。
そして何より、恐怖。
触れたのはほんの一瞬であったのに、触れるだけのつたない口づけであったのに、あの一瞬、確かに自分は恐怖を覚えた。
獲物の喉笛に暗いつく獣の恐ろしさをあの瞬間覚えた。

触れた箇所から毒が広がっていく。
無邪気な毒に心が、身体が、魂が侵されていく。
あの男の純粋さが心底恐くてしょうがないというのに、どうしようもなく惹かれていく。
こどもの純真さで笑い、ひたむきに政宗を見つめる瞳。
ああ、そうだ。あの純粋さは、政宗が遠い昔になくしてしまったものだ。生きるために捨てねばならなかったたくさんのもののひとつ。きれいなこども。あの笑顔はこどもではいられなかった政宗が切り捨てたもの。
だから、こんなにも惹かれるのだろうか。恐怖しながらも目をそらせないのだろうか。
あの男は狂っている。
人を殺すのと同じ笑顔で団子を食べるなんて、ありえない。
それでも、その無邪気さは政宗の求めた、憧れそのままの姿に見えた。



政宗は真田幸村と部屋で飲んでいた。
真田が持参した甲州の地酒と政宗の用意したつまみ、そして煌々と輝く弦月を肴に二人きりの酒宴。
会うのはずいぶん久しぶりだ。酔った頭でぼんやりと考えながらまたちびりと酒を含む。
「政宗殿」
「Ah-?」
「覚えておりますか。先だってお会いした際、某はそなたに口付けた」
「…Yes, I remember」
「あれからずっと、考えておりました。なぜ、己があのようなことをしてしまったのか、と」
政宗の返した南蛮語などわからぬであろうに気にした様子もなく真田幸村はじっと政宗を見る。その瞳は戦場と同じ熱を持っていて、やっぱりこの男は狂っていると思った。これは、獣の目だ。相手を貪り尽そうとする、凶暴な、けれどそれ以外の含みを持たない、まっすぐな瞳だ。
「政宗殿、某は…」
真田の手が政宗に伸びる。いつかの再現だ。しかし、いつかと違って政宗は自分でも驚くほどに動揺していた。震えた手が盃に残っていた酒をこぼした。けれど、逃げられない。目をそらせない。なぜ。ああ、そうだ。今、この男はこどもではなく雄の顔をしているからか。
「…ふッ、ぁ…」
触れるだけでは物足りぬとばかりに舌が政宗の口腔に入り込み、そっと歯列をなぞって、政宗の舌に触れる。強く吸われ、口内を荒らされ、真田が離れていくころには政宗の息は上がっていた。
「政宗殿、某はそなたを慕っております。そなたが欲しくてたまらない。いくさばの熱だけでは、足りぬのです。某は、そなたのすべてが…」
欲しい、と耳元でささやかれてぞくりと悪寒に似た甘い震えが背を走る。

恐い、と思った。
きっとこの男はその日がきたのなら政宗に愛をささやいたその表情のまま、政宗に刃を向ける。
好敵手として真田との対決は政宗の望むところであり、政宗が天下を望み、真田の主である武田信玄が同じく天下を望む限り、此度の同盟は一時的なものでしかなく、二人の衝突は避けられない。そんなこと、考えるまでもないことだ。だから政宗はいつか真田を殺せなくなることを何より恐れる。政宗は向けられる好意にとことん弱い自分を自覚している。それがかつて奪われた母の愛への反動であるということも、いやというほどにわかっている。
(ともになど、生きられない。互いの生きる道が、今はたまたま交差しただけ。いつかもう一度離れていく。そして、そうなればきっともう二度と重ならない)
いつか、この無邪気な笑顔で刃を向けられる日が来たとき、自分は同じように笑えるだろうか。
真田の腕に抱きしめられたまま、そっと自問する。
そうだ、自分は恐いのだ。今日の笑顔そのままの真田に切り捨てられることが、恐いのだ。
そしてその恐怖と同じほどに、政宗の焦がれたこの笑顔が失われることを恐れている。
いつか別れが訪れたとき、そして刃を向け合ったときにこの男に何の悲しみの色も浮かばないことを恐れているくせに、この男から無邪気な笑みが失われることを恐れている。なんという矛盾だろうか。
真田は政宗を抱きしめたまま、じっと返事を待っている。
「…こわい」
小さくこぼした言葉に、真田は何も言わずに抱きしめる腕に力を込めた。
政宗より二つ年下のくせに、二槍を危うげもなく操る腕は力強く、伝わるぬくもりはただ優しかった。
己の孕む狂気にすら気づかない愚かな男。政宗のなくした無邪気さで笑う男。
覚悟が必要だ。
いつか、この男を切り捨てる覚悟が。
いつか、この男に切り捨てられる覚悟が。
この狂った男をこんなにも求める自分は、きっと自分で思っている以上に狂っているに相違ない。
そっと、政宗は自身を抱きしめる年下の狂った男の背に腕を回し、ぎゅ、としがみつくように抱き返した。
男は政宗の覚悟も知らないまま、政宗の好きな無邪気な顔で笑った。









(狂ったこども、きれいなこども、おまえは数多幾千の血に手を染めようともどうか最後までそのままの無邪気さで笑っていて)







笑って哂ってわらって。



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