あんたの目が恋に輝くところを見て見たいね。
突然現れて暴れていった風来坊にそんなことを言われて、独眼竜はたいそう困ってしまいました。
「こいって…なんだ?」
竜は、恋を、知りませんでした。
恋とはどんなものかしら
「なあ、小十郎。こいってなんだ?」
困った竜は、まずは己の右目に問いかけました。右目は竜より十も年上で、大人で、いつだって竜はわからないことがあると一番に右目にきくのです。
「恋とは…誰かをいとおしく思う気持ちのことです」
頬に傷のある強面の男は、優しく目元を和らげて幼子に諭すように言いました。
(もう子どもじゃないのに…)
そう思いつつも、そっと髪をすいてくれる無骨な指先が思いのほか優しいのが気持ちよくて、うっとり目を細めながら力を抜いて甘えるように右目によりかかりました。
「誰かを…いとおしく…?じゃあ、俺は小十郎や、成実や、軍の連中に恋をしているのか?」
俺はみんないとおしいと思っている。いとおしくて、大切で、だから守りたいと思ってる。
そう言って無垢な瞳でじっと見つめてくる竜に右目は困ったように眉を八の字にしました。
「それは、違いますが…申し訳ありません、私にはどう説明すればよいのかわかりません」
恋を知らない哀れな竜をいとおしむようにそっと眼帯にかかる長い前髪をかき上げてやりながら、右目は少しだけ寂しそうに笑いました。
思う答えを得られなかった竜は筆をとり執務をこなしながらもすっきりしません。
「なあ」
答えが気になって仕方ない竜は天井裏に隠れている忍を呼びました。
「ありゃりゃ、ばれてた?」
「とっくにな。…なあ、おまえ、こいってどんなものか知ってるか?」
腕に自信のある忍は見つかってしまったことに悔しそうに顔をしかめながらも素直に竜の前におりてきました。そして、向けられた予想外の言葉に目を丸くしました。
「恋だって?そんなの俺様が知ってるわけないでしょ!だって、俺様は忍なんだから」
「そうか」
落胆して肩を落とす竜を哀れに思ったのか、忍はそういえば、と口を開きました。
「そういえば、前、かすがが言ってたけど、恋をするとその人のことが特別になるんだって」
「特別…?じゃあ、俺は小十郎に恋をしてるのか?」
「は?」
「おまえは、真田幸村に恋をしているのか?そんで、真田幸村は武田信玄に恋をしていて、武田信玄は上杉謙信に恋をしているのか?」
「は??」
「だって、誰かのことが特別になるんだろ?小十郎は俺の右目だし、真田幸村はおまえの主だろ?信玄公は真田の主で、信玄公と謙信公は宿敵だろ?」
特別って、そういうことじゃないのか?
真剣な目でそう聞いてくる竜に頭を抱えながら、忍は違うよ、と否定しました。
「俺様にも恋ってよくわかんないけど、多分、違うよ。特別って…えーっと、一緒にいると嬉しかったり、どきどきしたり…たぶん、そういう特別」
じゃあ、俺様もう行くね。
姿を消した忍に、そういえばあいつはどうしてここにいたんだろう、と思いながら竜はますます悩んでしまいました。
だって、竜は右目といると嬉しくなります。唯一背中を預けられる相手で、幼いころからずっとそばにいた相手です。悪戯や失敗をした後なんかは、見つかったらどうしよう、とどきどきします。忍にしたって、あの虎若子と一緒にいれば嬉しくなるしどきどきするはずです。だって、虎若子は忍の唯一と定めた主ですし、あいつは次に何をやらかすかわからないので一緒にいればどきどきするに違いないのです。甲斐の虎と越後の竜はいうまでもありません。だって宿敵とはいくさばで対峙しては胸を高鳴らせ、心が高揚するものなのですから。けれど、それは違うと忍はいいました。
竜には、何が違うのかわかりませんでした。
気分転換に街をぶらぶらしよう、と平服で城下におりた竜は細工屋で簪を見比べては店主と楽しそうに話している男を見つけました。小猿をつれた風来坊です。
「あ、あんた」
「よう、独眼竜の兄さんじゃないか!」
人懐こく笑って片手を挙げた風来坊はなあなあ、と手にとった二つの簪を竜に見せました。
「あんた、どっちが好きだい?」
「…」
「こっちか。ふぅん、なかなかいい目をしてるじゃないか。なあ、竜の兄さんはこういうものを贈る相手はいないのかい?」
「あんたには関係ないだろ」
「確かに関係ないかもしれないけど、でも、教えてくれたっていいじゃないか。俺はあんたに興味があるんだ」
「…」
「おじさーん、この簪もらってくよ。いくらだい?」
竜の指したほうの簪を購入した風来坊は満足げにうなずき、振り返ってにっこり笑いました。
「これ、あんたにやるよ」
「は?俺は男だ。簪なんぞ必要ないだろ」
「まあまあ、気にしないで。ほら、似合う」
「てめぇ、勝手に…何しやがる」
鋭くにらみつける竜に頓着せず、竜の散切り頭に手を伸ばすと、器用に簪で纏め上げて満足そうにうなずきます。
「まつ姉ちゃんへの土産のつもりだったけど、考えてみればまつ姉ちゃんは簪なんて使わないからね。代わりに地酒でも買っていくよ」
にこにこと笑う男に毒気を抜かれ、嘆息した竜は諦めたようにたずねました。
「………なあ、あんたに聞きたいことがある」
「ん、なんだい?恋の相談なら任せておくれよ!」
「こいって、なんだ?」
竜の言葉に、風来坊は信じられない、とでもいうかのように目を丸くしました。
「いとおしいとおもう気持ち…っていうのは、なんとなくわかる気がする。でも、こいって何だ?愛とどう違う?そもそも、愛ってなんだ?」
「あんた、恋を知らないのかい!?」
「…」
決まり悪そうに竜がうなずくと、一転して優しい目になった風来坊は結い上げた髪に気をつけながらそっと竜の頭を撫でました。
「恋ってのはさ、いいもんだよ。あったかくて、優しい気持ちになれる。恋した相手と一緒にいられれば、すごく幸せなもんさ。愛は万人に与えることができるけど、恋はたった一人とするもんだよ」
いつか、あんたにもそんな相手ができるといいな。
そう言った風来坊はどこか遠くを見ているようで切なげでした。
簪の礼を言って風来坊と別れた竜は小腹が空いた、と茶屋に入ることにしました。
「…政宗殿?」
躊躇いがちに声をかけられ振り返れば、思いもかけない相手が立っています。
「真田幸村?あんた、なんでこんなところに…」
ここは竜の納める国であり、虎若子の領国からは遠くちょっと散歩に、という距離ではありません。
「御久しゅうござります。後姿でそれとわかりまいたが、平生とは違う髪形をしておられるため、自信がもてませんで」
「Ah−…そういえば…。あんた、よくわかったな」
簪の存在をすっかり忘れていた竜は後ろに手を伸ばして触れながら感心したように虎若子に視線を向けます。
「それはどうなさったのですか?」
「なんかよくわかんねぇが…前田の風来坊にもらった」
「前田の…慶次殿でござりますか」
「変か?」
眉をひそめ顔をしかめた虎若子に不安になった竜がたずねます。虎若子は手を伸ばしてそっと簪に触れながら、一転して笑顔でこたえます。
「いいえ、よくお似合いにござります」
「そっか。…それで、そういえばあんたはどうしてここにいるんだよ」
ほめられたことに照れくさそうにはにかんだ竜は最初の質問をはぐらかされていたことを思い出し、もう一度聞くと虎若子は困ったように視線を彷徨わせ、けれど観念して口を開きました。
「それは、その…政宗殿にお会いしたくなり…無礼を承知で、来てしまいました」
「…」
「ここまで来たはいいものの流石に城に押しかけるのは無礼が過ぎるかと、二、三日城下に滞在し、政宗殿の治める街を堪能しようかと思っておりまいたので…思いがけずお会いでき、うれしゅうござります」
照れくさそうに笑う虎若子にあきれながらも、その言葉が嬉しかった竜は同じように少し照れながら馬鹿、と小さく呟きました。
「相変わらず思い込んだら一直線だな、あんたは」
「政宗殿に会いたくて仕方なかったのでござる。思い込んだら矢も楯もとまらぬ某の性情、政宗殿もご存知でござろう」
虎若子の言葉に軽く肩をすくめた竜は気恥ずかしさをごまかすために運ばれてきた団子を口に運びました。ほどよい甘さにふっと口元をほころばせたところで、そういえば、と顔を上げて虎若子にも今日幾度目かの質問をぶつけようと口を開きました。
「なあ、真田」
「はんでほはろうは」
口に団子を含ませたまま返事をした虎若子に呆れた竜は懐から手ぬぐいを出して口の端についている団子のたれをふき取ってやりながら軽くしかる。
「返事をするのは口の中が空になってからでいい」
「か、かたじけない」
慌てて団子を飲み下し返事を返す様子に笑いながら、気を取り直してもう一度口を開きます。
「なあ、あんた…こいってどんなものか知ってるか?」
「恋…でござるか?」
あまりにも唐突な質問に驚き目を見張らせた虎若子はかすかに頬を赤く染めましたが、竜の真剣な瞳にぶつかり、同じく真剣に応えました。
「恋とは…そう、そうですな。相手の心を請い、愛を乞う。触れたいと願い、笑って欲しいと望み、共に在りたいと思わずにはいられない。某の知る恋とは、かような想いにござる」
「…随分具体的だな。あんた、こいをしているのか?」
「はい」
「!」
「政宗殿…某、そなたを恋い慕っておりまする」
秘密の話をするように、そっと、低くささやかれて竜は耳まで真っ赤になりました。
幼さを残しながらも精悍な面立ちは真摯な情にあふれており、息苦しさすら覚えながらも目をそらすことはできません。
「さなだ…」
「男同士であるという事実も、敵同士であるという現実も乗り越え、某は、そなたが欲しい。そなただけ、そなたしか欲しくはないのです」
そうっと手をとられ、指先に軽く口付けられ、竜は心臓がどくどくと高鳴るのに戸惑いを覚えました。
思い返してみれば、いつだってそうなのです。いつだって、虎若子にあったときは痛いほどに胸が高鳴りました。それは好敵手と相対する喜びからくるものだと思っていましたが、考えてみればいくさばに限らず虎若子と会えばいつだって胸が高鳴っていたのです。何気ない言葉を交わすだけでも嬉しく、笑い合えるのが幸せでした。虎若子の笑みは純真で真っ直ぐで、本当に嬉しそうに笑うのが嬉しくて、竜をあったかい気持ちにさせてくれました。そんな時、竜はなんだかいつもよりも優しい気持ちになれる気がして知らず知らずに微笑んでいることもよくあります。そして、いくさばで刃を重ねることを望みながらも、心のどこかで、本当に少しだけ、共に生きられればいいのに、と、望まずにはいられませんでした。
(そうか)
もうとっくに、虎若子は竜の心の深い場所に居場所を作ってしまっていました。そう、虎若子は竜の特別になっていたのです。
「……俺、も」
「政宗殿?」
「俺も…。よくわかんないし、もしかしたら間違っているかもしれないけど…でも、多分…俺も、あんたが好きだ。恋…してるんだと思う」
普段の竜らしくない、たどたどしく幼い口調で恋を告げられた虎若子はあまりの幸福に眩暈さえしました。悪意には敏感なのに好意にはあまりに鈍感な竜の、戸惑いながらの告白は虎若子を幸福でいっぱいにするには十分すぎました。
「政宗殿…」
溢れる喜びをそのまま象ったように、虎若子は笑いました。その笑みはとてもとてもきれいで本当に嬉しそうで、竜は胸が高鳴るのを感じながらこれが恋、と確かめるように心のうちでつぶやきました。
本当は、まだ。
恋がどんなものなのかよくわかっていないけれど、それでいいのだと竜は思いました。本当は、誰も恋がどんなものなのかはっきりとはわからないのだと。だって、誰に聞いても恋は抽象的なものでした。いとしいと想う思い、誰かを特別だと想う思い、あたたかくて優しい思い、相手のすべてを求めともに在りたいと願う思い、すべてが恋でありながら、きっと同一のものではありません。星の数ほどの恋があり、まったく同じものはひとつもないのでしょう。
虎若子の幸せそうな笑顔に竜の胸はきゅんとなりました。好きだといわれたときにも、抱きしめられたときにも、竜の胸はきゅんとなりました。
だから、きっと。
これが竜の恋の形なのでしょう。胸がきゅんきゅんしてちょっとだけ苦しくて、でも心のうちに宿る甘い何かに泣きたくなるほど幸福なのです。
それが、竜のみつけた恋でした。
「政宗殿…」
「幸村…」
想いの実る喜びに浸りながら竜を抱きしめる虎若子にとっても、初めての感情に戸惑いながらも虎若子の背におずおずとしがみつく竜にとっても、狭い茶屋の片隅に店中の視線が集まっていることなんて、どうでもいいことなのでした。
だって、二人はとても幸せなのですから!
いといしいとしというこころ
フィガロの結婚(モーツァルト)より借題
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