目の前が真っ暗になった気がした。
奈良シカマルという人物が存在するために猿飛アスマという男は不可欠だった。
この男がいたから今のオレがあるといってもいいだろう。
いろいろなものを教えてもらった。
数え切れないほどの大切なものをもらった。
それは、たとえば戦い方。
それは、たとえば笑顔。
それは、たとえば幸福。
とにかく、そんな感じでオレはあいつにたくさんのものをもらった。
目に見えるものも、目に見えないものも、とにかくたくさん。
それこそ大事なものからくだらないものまで。
オレは――
冷たくなっていくアスマの体に触れながらシカマルは考えた。
いい生徒ではなかっただろう。
いつでもやる気がなくて、口を開けばめんどくさいと言って、さぞかし扱いにくい生徒だっただろう。
それでもアスマは笑ってしょうがねえな、と言った。
しょうがねえな、と笑ってタバコを吸っていた。
忍としては最高の部類に入るはずなのに将棋でオレに勝ったことはなくて、ムキになってもう一回やろう、と何度でも挑んできた。
「今のなし!」
何度も何度も耳にしたあの慌てた声。
「王手」
それに冷静に追い討ちをかける自分。
「う〜〜…くそっ、もう一回やろうぜ」
オレがオーケーを出す前に勝手にコマを並べて準備し始めて。
「はあ?めんどくせえな」
冷たくそう言ってやると、
「シカマル〜頼む。もう一回、な?」
自分よりもずっと年下の生意気な教え子に頭を下げて情けない表情をしていた。
天気のいい日に日当たりのいい縁側で盤をはさんで向かい合って熱いほうじ茶でもすすりながらのんびりとアスマと将棋をするのが好きだ。
一番好きだ。
オレはアスマに一度も負けたことがないけれど、でも勝ち負けなんてどうでもよかった。
ただ、あの瞬間、あの空間、あの場所が好きだった。
幸せ、というものがそこにはあったと思う。
いのの啜り泣きが、チョウジの嗚咽が、耳にやけに大きく響く。
顔を上げて二人を順番に見た。
二人とも涙でぐちゃぐちゃの顔をしていた。
もう一度アスマに視線を戻す。
アスマの顔がにじんでいた。
ぼとり、と一度落ちるとそれはとめどなく落ち始めて、オレも声を殺して泣いた。
アカデミー時代に習った忍の心得なんてものは頭の中から抹消している。
あんなもの、本当に大切な誰かを失ったことがないやつが作ったに違いない。
この男が好きだ。
師として、男として、人として、好きだ。
猿飛アスマという男が、誰よりも好きだ。
この男もオレのことをそれなりに好きだったらしい。
好きだと言ったし、好きだと言われた。
紅先生とこいつが付き合っていることを知っていたけれど、そんなことはどうでもよかった。
ただ、アスマが好きだった。
それだけだ。
何度もキスをした。
タバコくさかったし髭があたって痛かったけど、でもアスマとのキスは好きだった。
セックスも、何回かした。
アスマの大きな手に触られるのが好きだった。
アスマの力強い腕に抱きしめられると安心した。
アスマのそばは居心地がよくて、知らず知らずのうちに甘えてしまっていた。
オレの甘えを笑って受け止めてくれる大きな男だった。
「シカマル…」
呼ばれて顔を上げると、泣きはらした真っ赤な目のいのがオレを見ていた。
その隣では鼻水と涙でぐしゃぐしゃの顔のチョウジもオレを見ていた。
二人の目を順番に見てから、オレはやっぱりアスマに目を戻した。
もうずっと、この男に恋をしていた。
幼いながらも真剣で、笑えるほどに一途な思いで。
この男のことを、ずっと見つめていた。
これからも、見つめていたかった。
ずっとずっと、見つめていけると思っていた。
「アスマ…」
もうすっかり冷たくなってしまったアスマの体。
どうして涙は止まらないのだろう。
嗚咽はなく、ただ静かに涙が頬を伝っては落ちていった。
アスマ
アスマ
アスマ
あんたにとって、人生はいいものだったか?
オレはあんたに何かしてあげられただろうか。
あんたがオレにくれたものの100万分の1でもオレはあんたに返すことが出来ただろうか?
あんたと一緒にいた時間がオレにとって幸福であったようにあんたもオレと一緒にいた時間を幸福と思ってくれただろうか?
最期を看取るのがオレたちで本当によかったのだろうか?
オレたちはあんたが誇りに思えるような生徒になれただろうか?
オレは、あんたに出会えてよかったと思ってる。
あんたがいなかったら今のオレはない。
あんたはどうだろう。
オレと出会ったことは、あんたにとって意味のあることだったか?
アスマ
アスマ
アスマ
本当に、もう会えないのか?
寂しい。寂しい。寂しい。
悲しい。悲しい。悲しい。
苦しい。苦しい。苦しい。
こんな気持ち、知らなかった。
涙が止まらないほどに辛いことがあるんだ。
いのとチョウジが涙を目にいっぱいためながらオレを見ていた。
「アスマ」
もう一度、名前を呼んだ。
返事は、当然なかった。
返事は、もう二度となかった。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
「アスマ」
「…」
「…」
いのもチョウジも何も言わなかった。
「アスマ」
その名前を呼ぶたびに返ってくる沈黙が怖かった。
「アスマ」
いつものように笑って返事をしてほしい。
「アスマぁ…」
耐えられない、というかのようにいのがまた泣き出した。
「いの…」
震える声でチョウジがいのを呼んだ。
「ちょっと、シカマル!」
いのが涙でゆがむ声で言った。
「いい加減にしてよ、もう。どれだけ呼んだって、もう、アスマ先生は…っ、先生は、かえってこないんだから!だったら、ほかにやることがあるはずでしょう!?」
耳に痛い正論。
いのにこんな言葉を言わせてしまったことを少しだけ後悔する。悲しいのは俺だけではないことも、こうしている時間さえ惜しい状況であることも、わかっている。それでも立ち上がれないのはオレの弱さ。こうしてまた無意識のうちに誰かに甘えている。情けない。それでも、力が入らないんだ。立ち上がれないんだ。
「………わかってる」
自分でも意外な冷静な声。雨音にまぎれて意外に響くいのの嗚咽。気まずい沈黙。
「シカマル…」
心配そうな声でオレを呼んだのはチョウジだ。
「アスマ…」
好きだ。
好きだ。
好きだ。
好きだ。
この男が、好きだ。
アスマが、好きだ。
もっといっぱい、好きだと言いたかった。
もっといっぱい、好きだと言ってほしかった。
アスマが紅先生とつきあっていても、かまわなかった。
本当に、そんなことどうでもよかったんだ。
彼女のことを愛していることを知っていたけど、オレに向けられた愛情もやっぱり本物だって知ってたから。
だから、紅先生はどう思ってたか知らないけど、オレはアスマと別れるつもりはなかった。
本当のことを言えばオレだけを見てほしかったけど、そばにいられるだけで幸せだったのもまた事実だから。
そこにいるだけで、アスマはオレを幸せにしてくれたから。
そう思ったらやっぱり涙が止まらなかった。
でも、オレたちはここで立ち止まるわけにはいかないから。
力が入らなくても、立ち上がれなくても、それでも無理やりにでもオレは進まなければならない。
だから、オレはアスマの冷たくなった唇に触れるだけのキスをした。
いのとチョウジが驚いたように息を呑む気配がしたがそんなことはどうでもよかった。
「アスマ、…愛してる。これまでも、これからも、ずっとずっと、あんただけを…誰よりも、愛してる」
小さな小さなかすれた声で、そうささやいた。雨音にまぎれてしまうような、自分でも聞き取れないような、誰にも聞こえないような、アスマにだけ届くような、声。
それから、オレは涙をぐいっと拭うと立ち上がって二人を見た。
足がガクガクと震えそうになるのを無理やり押さえつけて、いつもの顔を作って、いつもの声を作った。
「悪い…取り乱しちまった」
二人はさっきまでとは違う意味で泣きそうになっていた。
「…シカマル……」
「大丈夫…?」
無理やり笑みを作る。口の端をゆがめただけのひどくいびつな笑み。
「ああ、…今は、大丈夫だ。…そう、大丈夫……」
ゆっくりと、うなずく。
オレたちは、行かなくてはいけない。
やらなければならないことがある。
立ち止まっている時間なんてどこにもない。
『おまえが…おまえたちが、いつか…』
遠い言葉を思い出す。
『もっともっと…オレよりも強くなったら引退するかな』
笑っていた。
『だから、シカマル』
楽しそうに。
『将棋だけじゃなくて、忍としてもオレより強くなれよ』
やさしく穏やかに、笑って。
『楽しみにしてるぜ』
タバコを吸っていた。
「行こう」
アスマの見た夢をかなえたい。
だから、オレたちはもっと強くなろう。
何者にも傷つけられることのないくらいに強く、強く。
「…うん」
「うん」
二人がうなずくのを見て、オレもうなずいた。
そこから立ち去る前にもう一度だけこっそり振り返った。
『シカマル』
「え?」
『またな』
タバコをくわえたまま飄々と笑って手を振る大男。
幻だったのかもしれない。
オレ以外の誰も気づかなかったから。
オレの心が見せた幻だったのかもしれない。
でも、その幻はオレに勇気をくれた。
前を見て、歩いていく勇気を。
ずっとそばにいて、見守ってくれていたやさしい男はもうどこにもいない。
でも、それでもずっと、死んでからもあいつはオレを待っててくれる。
その事実が、オレを少しだけ強くした。
「…またな、アスマ」
寂しくて悲しくて苦しくて辛いけど
サヨナラなんて永遠に言わない。
ずっと、そこに、いてください
BACK