寒椿
「とうさま!かあさま!」
久しぶりにネジと椿の休日が重なったある寒い日の朝のこと。
朝食を済ませて部屋でくつろいでいたら2歳になる娘がオレたちを呼びに来た。
「レイ、どうかしたの?」
「いいから!はやくきて!」
椿が優しく問いかけるが、レイは俺と椿の手を引っ張って「はやく」と繰り返す。
二人で顔を見合わせて首を傾げるが、楽しそうなレイの様子にオレも椿もわけがわからないままついていくことにした。
「レイ、何があるんだ?」
「ないしょ!でも、いいもの!」
「何かしら?」
嬉しそうに笑いながら手を引っ張る幼い娘。
黒い髪の毛が肩の辺りでゆらゆらと揺れるのがかわいらしい、と思う。
「ほら、みて!おはながあかくなってるの!」
庭に植えた椿のつぼみが、赤く色づいていた。
レイは、大発見をした、というような得意そうな顔でオレたちを見上げた。
「きれいでしょ?」
「ああ。椿か…もうそんな時期なんだな」
レイを抱き上げながらそっと呟けば
「…かあさま?」
不思議そうに俺の顔を見てきた。
「ああ、違う違う。母様じゃなくって、この花のこと。この花は“椿”というんだよ」
「ふぅ〜ん。かあさまとおなじなまえのおはななのね!」
無邪気な質問にそっと答えれば、嬉しそうな笑顔が返ってくる。
「そうね、母様の名前は、このお花からきているのよ」
椿が手を伸ばしてレイの頬を撫でる。
「母様が生まれた日に、母様が育った里の椿が、とてもとてもきれいに咲いたのですって。だから、この子の名前は“椿”にしようって、母様の父様と母様が決めたのよ」
懐かしげに、遠い昔を思い出すかのように目を細めて言う。
彼女の育った里は、もうどこにもない。椿の両親も、里と共に散ってしまった。今、その里を覚えているのは椿と、その弟の萩だけだ。その記憶は今も消えない傷となって二人を苦しめている。何もしてやれない自分がもどかしいが、それでも随分と穏やかに生まれ里のことを話せるようになった椿に、内心で安堵の息をつく。
「ふぅーん。このおはなは、かあさまといっしょにうまれたおはな?」
「母様と一緒に生まれたお花は、今はもうないの」
「なんで?」
「…燃えちゃったから」
「…」
寂しそうな母の声と表情に、それ以上聞いてはいけないと思ったのかレイは庭の椿を指さした。
「じゃあ、このおはなは、かあさまのおはななのね」
「ああ、そうだよ」
椿のかわりにこたえてやると、レイは嬉しそうに笑った。
「かあさまの、おはな」
レイの指差す先にある椿の花。もうすぐ、赤い花を咲かせてくれる。冬の寂しい時期に凛と咲く、赤い椿の花。
「ねえ、レイ」
「なあに?かあさま」
「このお花、いつ植えたのか知ってる?」
「知らないよ」
唇を尖らせてこたえるレイに楽しそうに微笑んで椿は言った。
「あのね、あなたが母様のお腹にいるってわかったときに、父様が植えてくれたのよ」
懐かしそうに嬉しそうに語る椿。
『ネジ、どうしたの?この椿』
『オレから、おまえに…贈り物、だな』
『私に?』
『ああ、おまえの名前のもとになった椿と同じ種類かどうかはわからないが…おまえの花だろう』
『…』
『どうした、気に入らなかったか?』
『そうじゃなくて…』
『?』
『嬉しくて…。ありがとう、…ネジ』
「この椿は、寒椿という種類で…寒い日に咲く強い椿。きっと…母様の父様たちが見ていた椿も、この椿だったわ…」
その時のことを思い出したのか、無意識のうちにだろう笑みを口元に浮かべてオレを見た椿は、とてもキレイだった。
「すてきね。かあさまのおはな。…ねえ、レイにはおはなないの?」
この花が椿の花だと知って、自分の花がほしくなったのだろう。期待に目を輝かせた。
「残念だけど…レイのお花はないわ」
椿が困ったように言う。
「レイもおはながほしい。おはなのなまえがいい」
泣きそうな顔になった娘に、椿が困った顔をしてオレに救いを求めてくる。
どうするべきか、少し考えてから口を開いた。
「レイ」
「…」
「レイの名前は、お花じゃないけどね、ちゃんと意味があるんだよ?」
「どんなの?」
「レイっていうのは、光線…」
「?」
「お日様の雫、っていう意味だよ」
「おひさま?」
「そう。お花の名前じゃないけど、それでも、お日様のように明るくて、暖かい女の子になってほしい、って考えた名前なんだ。ちゃんと、意味があるんだよ」
そう言って教えてやると、泣きべそから一転、ほころぶような笑顔になった。
「レイ、このなまえだいすき!」
現金にもそう言った娘に、椿とオレは声を上げて笑う。
「あのね」
「ん?」
「あのね、レイね、とうさまとかあさまのおひさまになって、とうさまたちがさむいときにはあっためてあげるね」
泣きそうになった。
心の中に消えない暗闇。
父が殺された日、心に大きな穴が開いた。そこにある暗闇に気づき、蝋燭を灯してくれた少年がいた。その灯りを元に手探りで進んでいけば、暗闇に迷う椿を見つけた。そして二人で進んで行き、今、レイに出会った。オレたちを照らしてくれる、小さいけれども確かな、太陽の雫。
遠い昔に失った幸せが、ここにある。
「レイ」
「とうさま、どうしたの?どこかいたいの?かなしいの?」
「いいや、ちがうよ…」
「でも、とうさまなきそうなおかおしてるよ?」
「レイ…」
「かあさまも、なきそう…どうしたの?だれかにいじめられたの?」
「レイ、違うの…」
椿の声がかすかに震えた。
「父様も母様も…嬉しいの」
「?」
「レイ、いい子ね。大好きよ」
椿はオレの腕からレイを受け取ってしっかりと抱きしめた。
「かあさま?」
「レイ…ありがとう」
今、自分は幸せなのだと心から思った。
白い雪の中に咲く一輪の寒椿
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