覆水
最初は、なんだか嬉しかった。
次に、わけもなく苛立たしくなった。
それから、意味もなく楽しいと思った。
今は、ただただ悲しかった。
嬉しかったのは、一人ぼっちだという境遇が、自分だけではないという事実に対して。
公園で遊んでいても、夕刻になればみんな親が迎えに来て、仲良く帰っていった。それを、一人で見ているのがたまらなく寂しくて、悲しかった。
どうして、オレには父ちゃんも母ちゃんもいないの?
以前、それを口にしたとき三代目のじいちゃんは困ったような顔をして、「すまんのう」と言って頭をなでてくれた。
オレに対して普通に接してくれる数少ない…もしかしたら、唯一かもしれない存在であるじいちゃんを困らせたくなくて、そのまま何も言えなかった。気になって、知りたくって、教えてほしかったけど、聞けなかった。
あんまりしつこく聞いて、じいちゃんにまで疎まれるのは、耐えられなかったから。
一人であることに不満も、疑問も、不便も、あった。
でも、それ以上に寂しかった。
だから、誰かがかけらでもやさしさを示してくれれば、バカみたいにそれにすがっていた。
寂しさを紛らわせるために公園に行けば誰かがいたし、そのうちの数人は何のためらいもなく一緒に遊んでくれた。
でも、親に手を引かれて嬉しそうに、楽しそうに今日あった出来事を話しながら帰っていく後姿が、見ていてつらかった。
その後姿は、オレが“独りぼっち”だという事実を際立たせたから。
オレには迎えに来てくれる人なんていなくって、いつも最後の一人になるまで公園に残っていた。誰もいない公園は寂しくって、哀しい場所だった。
だから、夕方になっても一人で桟橋に座って池を見つめている子供の姿を見た瞬間、嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。
でも、その少し寂しそうな横顔を見て、嬉しいと思った自分を後悔した。
一人ぼっちの寂しさを誰よりもよくわかっている自分が、誰かが一人でいることに喜びを覚えたことを、後悔した。
でも、その嬉しさは罪悪感を凌駕して、オレの中で順調すぎるくらい順調に育っていった。
声をかけたくて、かけられなくて。仲良くなりたくて、なれなくて。話しかけたくて、かけられなくて。
オレはサスケを意識していたけど、サスケはオレのことなんて、歯牙にもかけてないっていうことが、悔しくって。
だから、その後姿をじっと見ていることしか、できなかった。
じっとその背中を見ていて、気まぐれのようにサスケが振り向いて、オレと目が合ったとき。
多分、そのときから、オレたちの間に何かが生まれたんだ。
でも、その『何か』っていうのが、何かわからなくって。
お互い顔をしかめたあとに、プイとそっぽを向いて、何の興味もないようなふりをして。
オレはスタスタとその場を立ち去り、サスケは何事もなかったかのようにまた池を見ていた。
興味がないようなふりをして歩きながらも気になって、振り返って見るとサスケのその口元には微かに、だけど確かに笑みが浮かんでいて。
それがなんとなく、でもすごく嬉しくって、オレも笑みを浮かべた。
多分、それがオレたちの、そしてすべての始まりだったのだと思う。
次に、わけもなく苛立たしかったのは、きっと同じように一人でありながらまったく違うオレとサスケに対してだった。
オレも、サスケも一人ぼっちで。
だから、勝手に妙な連帯感を感じていた。
“アイツと、オレは一緒なんだ”
そう思うと、少しだけ嬉しかった。
同じ一人ぼっちでも周りの人たちの、オレとサスケに対する態度が全然違ったこともサスケに対する仲間意識を強めるのに役立っていたのかもしれない。
『サスケって、すげえよな』
『オレたちとは、全然違う』
『オレも、いつかはアイツみたいにかっこよく手裏剣投げれるようになってみせる!』
『サスケくん、すごい!』
『かっこいい!』
『サスケくんがいると、ほかの男子って、全部引き立て役になっちゃうわよね』
別に、サスケに向けられているような賞賛がほしかったわけじゃない。
まったくほしくなかったとは言わないけれど、、一番ほしかったのは、ソレじゃない。
オレがほしいのは、オレをちゃんと認めてくれる人だった。
サスケなら、それになってくれるんじゃないかと、心のどこかで期待していた。
『見ろよ、ナルトだぜ』
『アカデミー一番のどべ!まったく、どうやったらあんなふうになるんだか』
『オレ、母ちゃんにあいつとは話すなって言われた』
『ナルトって、邪魔よね』
『才能ないくせにサスケくんに張り合おうなんて百年早い、っての』
『ナルトがいなくなっても悲しむ女子なんて、だぁれもいないわよね〜!』
身が竦むような冷たい視線と心が凍てつくような言葉を、いちいち傷つくのもバカらしくなるほどに、向けられた。
それでもいちいち傷ついてしまう律儀な心は、いつからか求めることに疲れてしまっていて。
多分、サスケに感じている仲間意識はオレの最後の砦だったのだと思う。
もし、あのころサスケに拒絶されていたらオレの心は砕けていたのではないか、とさえ思ってしまうほどにオレはサスケの存在が頼りだった。
なのに、サスケはオレのことなんて気にも留めないですごい勢いで前を行ってしまう。
同じ一人ぼっちなのになんでもできてしまうサスケを、ずるいと思った。
周りの人たちなんて目にも留めないで行ってしまうサスケを、振り向かせたいと思った。
自分が感じている勝手な連帯感と仲間意識を、アイツにも感じてほしいと思った。
誰も認めないサスケに、認めてもらいたいと思った。
アカデミーの誰もがその実力を認めるサスケのように、なりたいと思った。
何より、オレを見てほしいと思った。
友達に、なりたいと思った。
それらの気持ちになんていう名前をつければいいのかわからなかったから、オレの知ってる中で一番近い感情の名前を、サスケに向けている思い全部にひっくるめてつけた。
その感情の名は、“憧れ”
“憧れ”っていうのは、物事に心が奪われたりとか理想として思いを寄せたりすることなんだって、いつだったかじいちゃんに聞いた。
そのときから、オレの憧れの対象は“火影”…なかでも、里を救って命を落とした四代目に向けられていた。
サスケに対する思いと火影たちに向ける思いは違う気もしたけど、サスケに向ける思いの中に憧れも混じっているのは事実だったから、それ以外の思いはとりあえずおいて“憧れ”と名づけることにした。
サスケに抱いている思いを自覚する前から、ずっと、盲目的にサスケのことを追いかけて、追いかけて。
サスケに抱いている思いに“憧れ”と名前をつけてからもずっと、ひたすらにサスケを目指して、追いかけて、追いかけて。
でも、変わらない関係と、振り返らないサスケと、追いつけない自分に対して、いつも少し苛立っていた。
サスケと一緒に過ごした時間は想像していたよりもずっと楽しいものだったから、いつも、意味もなく楽しくてしょうがなかった。
オレを認めてくれる人に、イルカ先生が加わった。
それから、イルカ先生がきっかけだったかのようにカカシ先生と、サクラちゃんと…サスケが加わった。
言葉にできないくらいに、嬉しかった。
じいちゃんが、「ナルト」と呼んでくれるから、名前が大切なものになった。
イルカ先生が「あいつは木ノ葉隠れの里のうずまきナルトだ」と言ってくれたから、オレは初めて、オレの存在を認めてもらえた気がした。
九尾のことを知っているはずのカカシ先生が「ごーかっくv」って言って笑ったから、オレは木ノ葉の里に、この人たちのそばにいていいんだ、と言ってもらえたんだと思った。
「コツ教えて!」って言ったオレにサクラちゃんが「…ったく、しょうがないわね…」そう言いながらもチャクラコントロールのコツを教えてくれたとき、オレたちは仲間なんだって思えた。
そして、サスケ…。サスケが「ホラよ」っていう短い言葉とともに弁当を差し出してくれたとき、やっと、オレを見てもらえたと思った。少しだけ、照れくさくって、かなり、嬉しかった。
そうやって誰かがオレのことを認めてくれるたびに、心が凍てつくような言葉の変わりに、暖めてくれるような優しい言葉が、オレのなかに溜まっていけばいいと思った。
そうやって順番に木ノ葉の里に…みんなの中に “オレ”ができていけばいいと思った。
オレを認めてくれる人たちがいたから、それまでとは比べ物にならないくらいに、生きていることが楽しくなった。
波の国での任務で、オレはすごく成長できたと思うし、チームの絆もぐっと深まって、サスケとの距離も縮んだ。
こうやって、任務をこなすたびにサスケとの距離が縮んで、いつか、並んで走れるようになるといいな、と思った。
多分、それはそんなに遠くないことなんだろうな…と思って、わくわくした。
いつからか、サスケに向けられていた“憧れ”は、“信頼”だとか“友情”だとか、そういう気持ちに変わっていた。
多分、これは“憧れ”よりもずっと近い人に対して抱く感情なんだろうな、と思って嬉しかった。
普段は全然だけど、時折さりげない言葉とか仕草とか雰囲気とかに、サスケからオレに向けられてるそういう気持ちも感じ取れて、顔が勝手ににやけそうになった。
一人ぼっちで勝手な仲間意識を抱いていたころは、手を伸ばしてもその陰に触れることさえできないような気がしていた。
でも、きっと、今は手を伸ばせばしぶしぶながらもサスケはオレの手をとってくれるんだろう、と思う。
今はそんな近しい距離にいるんだ。
距離が近づいていくと、それに比例して新しい発見もあって、楽しくてしょうがなかった。
「サスケ」
呼べば、振り返って
「ナルト」
答えてくれる。
そのリズムが、好きだった。
逆に、サスケが
「ナルト」
オレに声をかけて、オレが振り返る。
「サスケ」
そして、その名を呼ぶ。
このテンポが、好きだった。
だから、いつも嬉しくって、楽しくって、顔がにやけて。
12年間生きてきて笑った回数よりも、7班で、サスケたちと仲間になってから笑った回数のほうが多いかもしれないくらいだった。
多分、あれはオレがはじめて感じた“幸せ”という感情なのだと思う。
でも、今、こんなにも胸が痛くて悲しくてたまらないのは、その“幸せ”が壊れていくから、というよりもサスケが壊れてしまいそうなことが怖いからだと思う。
だって、目を閉じれば思い出すことができる。
『ナルト…』
小声ではあったけれど、それまでにない深い声でオレの名を呼んだサスケ声音を。
『オレは、おまえとも闘いたい…』
ぼろぼろの格好だったけど、挑むような目で真っ直ぐオレを見据えたサスケの表情を。
そして、アイツがはじめて口にしたオレを確かに認める言葉を。
イルカ先生に認めてもらえたときよりも。
下忍になれたあの日よりも。
オレの覚えているどんなことだって、そのときの喜びには敵いはしないだろう。
あの黒い瞳が、オレの姿を迷いなく見据えて、「闘いたい」と言ったとき、胸がドキンと高鳴った。
あの瞬間を、オレは決して忘れはしない。
…だから、悲しかった。
『ナルト』
聞いたこともないほどに暗い声でオレの名前を呼んだこと。
『オレと、闘え』
歪んだ瞳で、オレを睨み付けたこと。
サスケの言葉に答えながらも、本当は心で哭いていた。
…怖かった。
迷いのない瞳でオレを真っ直ぐに見据えたサスケの瞳が歪んでしまったことが。
…悲しかった。
憎悪のこもった暗い声でサスケがオレの名前を呼んだことが。
『オレも…お前と闘いたい……!』
そう言ったオレをじっと見ていたサスケの瞳は、もうどこにもないかもしれないと思うと、哀しかった。
『…ああ』
そう答えたサスケの深い声音を聞くことも、もうないのかもしれないと思うと、辛かった。
いつから、こうなってしまったのだろう?
それとも、最初から…?
笑いあっていたあの瞬間が本物だったように、オレに向けられたあの殺気も本物だった。
だから、胸が引き裂かれるかのように痛かった。
器からこぼれた水が二度と元には戻らないように、オレたちも、あのころのオレたちに戻ることはできないのだろうか?
『ナルトォ』
あんな、暗い憎悪に満ちた声ではなく。
『ナルト』
さりげない信頼のこもった声でオレの名前を読んでくれることは、もうないのだろうか?
オレの喜びも。
悲しみも、苦しみも、恐怖も、怒りも。
笑顔も、涙も。
すべて、サスケにつながっている。
だから、っていうわけじゃないけど。
オレは、何度でも望むよ。
何度でも、願うよ。
何度だって、戦うよ。
おまえを取り戻すためなら、なんだってしてやるよ。
だから、還ってきて。
そして、この悲しみに、終わりを告げて。
もしもの話なんてしたって何の意味もないけれど。
もしも、願いがかなうのなら。
どうか、あのころのオレの…オレたちの幸せをもう一度、繰り返させてください。
果てがないかと思われるこの身を裂くような悲しみが消える日が来ることを、オレは、願っている。
なあ、サスケ…。
きっと、そんな日が、また来るよな?
また、オレの名前をあの深い声で呼んでくれるよな?
いつか、二人で心から、笑い会えるよな?
こぼれた水を元に戻すことはできなくとも、新しく水を器に注ぐことはできるのだと、オレは信じたい。
過去を振り返り、今を想い、未来を信じる
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