「シカマルがまだアスマ先生のことを好きなんだとしても、あたしはシカマルのことが好きなの。…それだけのことよ」







アスマが死んでから3年経った。

紅サンが生んだのは男の子で、ヤンチャな目元が少しだけアスマに似ている。紅サンは生まれた子どもを何も言わずにオレに一番に抱かせてくれた。小さくて暖かい生き物を抱き上げた瞬間、オレよりもずっと大きな男が冷たくなっていったことを思い出して、オレは何も言わずに泣いた。腕の中にある命の重さ。失われた命の重さ。どちらも、忘れられない。紅サンは何も言わずに赤ん坊ごと、オレを抱きしめた。それから、二人でちょっとだけ泣いた。赤ん坊は何も知らずに平和そうに眠っていた。
それからはオレも任務やらなんやらで忙しくなったけど、それでも暇があれば紅サンのところに言って坊主の相手をしていたおかげで、オレはヤツにとって兄のような存在らしい。遊びに行けば顔中に笑みを浮かべて寄ってくるし、帰るときには半泣きになっていることも珍しくはない。紅サンは「やっぱり、親子だと好みも似るのかしらね」なんて言って笑っているけど、実際のところ紅サンはオレのことをどう思っているのだろうか。自分の恋人の恋人だった男をーいや、恋人っつーよりも愛人だな。紅サンとアスマは婚約もしてたわけだしー怖くてずっと聞けずにいるけれど、彼女から悪意や敵意を感じたことはなかったかもしれない。それはなぜなんだろう。


「なあ、アスマ…あんたは、どう思うよ」


銀色のジッポを指先でいじる。ひんやりとした硬質な冷たさが気持ちいい。

「…アスマ」

呼んでも、返事は返ってこない。もう二度と。あの男は、もうどこにもいない。息を引き取るその瞬間まで、あの身体から温もりがすっかり消えてしまうまで、オレはそばにいた。今でも、夢に見る。

「シカマルったら、またソレいじってんの?」

このジッポをいじるのは一種の癖になってしまっていて、気がつくと手を伸ばしてしまう。
昔、時間があればぼんやりと雲を眺めていた。
今は、時間があればこのジッポをいじっている。
そして、そんなオレのところにいのがやってくるのも珍しくないことだった。

「タバコ…もうやめたんでしょ」
「ああ」
「なのにそのジッポはいつも持ってるのね」
「…ああ」
いのは少しだけ微笑んで、隣に座った。
シカマルは何も言わない。それが、寂しいと思った。
「…そんなに、大切?」
「…」
「ごめん」
無神経な質問だった、といのは後悔した。

「…いや」
「シカマル」
「そうだな、大切だよ。…今でも、ずっと」
そう言ったシカマルの顔が穏やかだったから、いのは少しだけ泣きたくなった。
アスマ先生が死んでから、シカマルは大人になってしまった、と思う。
もともと年に似合わない落ち着きがあって、同期のメンバーの中では群を抜いて大人っぽかったシカマルだけど、3年前のあの任務は、シカマルをずいぶんと変えてしまった。
(ねえ、アスマ先生…ずるいよ)
いのだってアスマ先生のことは今でも大好きだけれど、それでも、思ってしまう。シカマルのすべてを独占したまま逝ってしまったアスマはずるい。

「…そういう、おまえはどうなんだよ」
「え?」
「サスケのことは…もう、大丈夫か?」
「…」
サスケのことが、好きだった。
とてもかっこよくて大人びていて、強かった。ほかの男の子たちとは何もかもが違う、と思った。サスケの内面を何も知らずにただ、かっこいいというだけで好きになり騒いでいた昔の自分はとても滑稽だ。でも、それでも確かにあれはあたしの初恋だった。それだけはゆずれない。
「あたしは…大丈夫よ。だって、あたしが…」
「…」
「…あたしが、今、好きなのはシカマルよ」
風がやんだ気がした。

時が止まったような錯覚を覚える。
「いの…オレは」
「知ってる。今でもアスマ先生のことが大好きで、心から愛してて、誰よりも大切なんでしょ」
「…」
でもね、と言葉を続けるいのの横顔には凛とした誇りがあって、とてもきれいに見えた。
「シカマルがまだアスマ先生のことを好きなんだとしても、あたしはシカマルのことが好きなの。…それだけのことよ」
「…」
「何も言わないでね。あたし、フラれてないもの。…だってそうでしょ?まだ告白したわけじゃないんだから」
「…」
「だから、今謝ったら、あたしへの侮辱とみなすからね」
本気で怒るからね、と呟くいのの背中はとても細くて、抱きしめたいと思ったけれどもそんな資格がないことはわかっていたので手は伸ばさなかった。

「いの」
「…何よ」
意地っ張りなところも、頑固なところも、わがままなところも、昔からかわっていない。
優しいところも、全然かわっていない。
大切な、幼馴染。
オレの一番はきっと多分永遠にあの男だけれど、それでもオレの中で一番上等な部分にいる幼馴染。
「ありがと、な」
「…どーいたしまして」
かすかに微笑む気配。



「あたし、もう行かなくっちゃ。パパと約束してるんだ」
「ああ」
「…じゃ、またね」
「ああ。…また、な」
いのは軽く手を振ってから、軽やかに身を翻して駆けていった。
その細い背中を見送ってから、一人になったシカマルは呟いた。
「それだけのこと、か…」
芝生の上に寝転んで空を仰ぐ。
空の青と雲の白が3:7の割合だ。雲のほうが多いけれども隙間から見える空は青くて、とてもきれいた。真っ白な雲はふわふわとしているように見えて、触れることができたのならきっと気持ちがいいのだろうと他愛のないことを考える。
(そういや、ガキのころは…あの雲に乗って遠くまで流されてみたいなんて考えてたっけ)
あの雲はどこまで行くのだろうか。きっと、シカマルがまだ見たこともないような国の空まで流れていくに違いない。
「…なあ」
手に持ったジッポを陽にかざしてみた。
「それだけのこと、なんだよな」
いのの言葉はいつになくシカマルの心に真っ直ぐに届いた。
『シカマルがまだアスマ先生のことを好きなんだとしても、あたしはシカマルのことが好きなの。…それだけのことよ』
迷いのない声だった。
「あんたが紅サンのことを好きだとしてもオレはあんたが好きだし、あんたが紅サンとつきあってるとしてもオレはあんたを諦められなかったし、あんたと紅サンが結婚するって知っても別れられなかった」
たくさん悩んだし、泣いたりもした。辛いことも、苦しいことも、たくさんあった。それでも、今でも思うのは
「あんたに会えて、…本当に、よかった」
今でも、ずっと感謝してる。あんたに会えたこの人生が、嬉しくて、嬉しくて、言葉にできないくらいに嬉しくて。
悩みも苦しみもあったけれど、それでもそれ以上の幸福をくれたし、優しさもぬくもりも。大切なこともくだらないことも、いろんなことを教えてくれた。
「あんたのそばに、いれて…幸せだったんだ」
一番近いところに、いたかった。あんたの隣はとても居心地がよくて、ほかの誰にもゆずりたくなかったんだ。それが、紅サンだとしても、それだけは譲れなかったんだ。
一番の幸せは、あんたの隣にいること。手を伸ばせば、届くところに。
「それだけのこと、だったんだ」
風が、ざわざわと木々の葉を揺らす。
「なあ、アスマ」




いのがオレを好きだと言う
紅サンもまだあんたのことを愛していると言う
そして、オレもあんたを誰より想ってる
ただ、それだけのこと。


心が軽くなった気がした。






わかってしまえば単純なことだった。



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