初恋の相手が10以上も年上の、しかも男だったことはその後のオレの人生及び人格形成に多大な影響を及ぼしたと思う。
上を向いても
その人はオレの先生で、保護者で、里の長で、奥さんまでいたんだから、もう泥沼だ。
もうひとつおまけに付け加えるなら、あの人の一人息子は現在進行形でオレの教え子だ。
時々、どうにもやりきれなくなって文句を言いたいと思う。
でも、文句を言おうにもあの人はこの世界のどこにもいない。
だから、さらにやりきれない。
やりきれない気持ちのまま、あの人の魂の眠る慰霊碑に語りかける。
…寂しさは、増すばかり。
「…なんで、勝手に逝っちゃったんですか。ナルトが生まれてくるのをあんなに楽しみにしてたくせに。オレが大人になって一緒に酒が飲めるようになるのを心待ちにしてたくせに」
何度も何度も繰り返して、いい加減自分でも飽きてきてしまった愚痴に慰霊碑は何も応えず付き合ってくれる。
手を伸ばして触れると、ひやりと冷たくて気持ちよかった。
「ナルト、もう13歳なんですよ。…まだ、下忍ですけど。でも、あいつは強い。不安になるくらいに、強くて弱い。…どうすればいいのか、わからなくなってしまうくらいに…」
山ほどの不安を抱えてこの場所に来て、吐き出すように愚痴って、帰っていく。
そんな日も、少なくない。
あふれそうなほどの喜びを抱いてこの場所に来て、分かち合うように報告して、帰っていく。
まれにではあるが、そんな日もあるけれど。
何かにつけてここに来ている。
毎朝、亡くした友のためにここに来て己を戒めて。
それと同じほどの時間、亡くした師であり恋人であった男のためにここに来る。
いい加減に吹っ切れろと、自分でも思う。
でもそれ以上にこの人たちに囚われることを望んでいる自分を知っている。
「うらやましいでしょう。あなたがあんなに楽しみに待っていた子供の成長を間近で見られるオレが。一緒に風呂も入りましたし隣の布団で寝たりもしましたよ。ああ、一緒にラーメンも食べましたね。誕生日には、どこから聞きつけたのか“おめでとう”って言ってくれましたし」
そこまで言ってからはぁ、と重いため息をついてから空を見上げた。
応えてくれる人がいないのにこんなことを言っていても、虚しい。
慰霊碑に向かってナルトについて語りかけながらも、心は違うことを思ってしまう。
守ることのできなかった、たくさんの約束。
叶えられることのなかった、たくさんの約束。
恨んだこともあった。
不満もあった。
でも、今はそれすら薄れてしまっていて。
ただ、胸をちりちりと痛める小さな切ない思いだけがあのころから変わらずに残っているだけだ。
叶えたかった、叶えてほしかった、叶えられなかった、小さな約束。
そばにいたかった。
ただ、それだけ。
それが、願ったすべてだった。
見上げた空は紫と赤。
向く方向によって空の色が違うのはなんだか落ち着かない気分にさせられる。
だから、この夕焼けが夜に空を明け渡す時間は好きではなかった。
「太陽が見えなくなれば落ち着けるのに…」
ポツリとつぶやいてから、その言葉に苦笑する。
オレが愛したのは、太陽のような輝きを持った光の似合う、人。
それなのに本物の太陽は好きではない。
それが忍としての性質なのか、それともあの人を連想させてしまう光がキライなだけなのかは今更どうでもいいことだ。
どちらにしろ、今の自分にはまぶしすぎる。
あの人も、太陽も。
「上を向いて歩こう…か」
ふと、昔あの人が歌ってくれた歌を思い出す。
涙がこぼれないように?
「上を向いて歩いたって、涙は伝ってくるのに」
空を見上げると、星が輝き始めている。
涙は浮かばない。
もう、枯れ果てるほどに泣いてしまったから。
今更、泣いたところでどうにもならないから。
だから、もう泣かない。
大体、20代も後半の男が一人でおいおい泣いてるなんて、不気味すぎる。
「…寒いな」
冷たい風が身を切るように吹き抜けていく。
寒いのは、キライだ。
寒さには強いほうだけれど寒いのは寂しくて悲しいからキライだ。
ぬくもりを分けてくれるように手をつないでくれた人がもういないからキライだ。
手を口元に寄せてはぁ、と息を吹きかけると当然のように白いもやが現れて消えた。
あの日からずっと心に薄くかかっているこのもやもこうやって一瞬で消えてしまえば楽なのに、と考えては苦笑する。
きっと、このもやがなくなったら自分は自分でいられない。
心の中にあの人とあいつがいるから今の自分がここにいる。
そんなこと、誰よりも自分がよくわかっている。
「…初恋は10以上も年の離れた成人男子…ね」
なんとなく口に出してみて、がっくりと落ち込む。
後悔するつもりはないが、やっぱり不毛だ。
「初恋の人の息子が教え子。…親友の親戚の暗部の後輩だった男は一族を潰して里を抜け、その弟はオレの教え子で、二人はライバル」
口に出してみると、すごい。
自棄になって笑ってみようか、と考えるがそれも今更な気がする。
「我ながらめんどくさい人生になっちゃったなぁ」
口調の軽さとは裏腹に、ため息はどっぷりと重たい。
「今さらだろ」
独り言のつもりで言ったのに、なぜか返事が返ってきた。
「アスマ」
ゆっくり振り向くと、そこにはひげ面の同僚がいた。
気配には気づいていたから驚きはない。
「何してんの?こんな時間に」
この寒いのに、とつぶやくとタバコの匂いとともに苦笑がふってきた。
「報告書だして、帰ろうと思ったら…おまえがいたんでな」
聞きようによっては口説き文句にもなるこのセリフに色めいた意味がまったくないことを知っているから、少し笑って応えた。
「オレのとこよりもシカマルのとこに行かなくていいの?」
この男は、教え子で15も年下の少年と付き合っている。
できれば、この恋が幸せな結末を迎えればいいと思う。
いや、いっそのこと結末がなければいいと思う。
あの少年は、頭が切れすぎるがゆえにこと恋愛に関しては自分を戒めすぎてしまいそうだから。
アスマがただの忍で、シカマルもただの忍であり続ける限り、お互いを想う気持ちが薄れない限り、一緒に歩いていくことは困難であろうとも苦痛ではないだろう。
そう思って、友の幸せを願う気持ちとかつての恋の苦さを軽い吐息に混ぜて吐き出す。
寒さに白いもやが生まれて、消えた。
「あいつは明日から任務だ」
口からゆっくりと煙を吐き出す様を見るとはなしに見ていた。
アスマは風下に立ってくれているから煙はこちらに流れてこない。
その大柄な体格に似合わず、雑なようでいてさりげなく気遣いができるやつだ。
だから、そんなところも含めてアスマと一緒にいるのは気が楽だった。
「ふうん」
おおよそ10cmアスマのほうが背が高くて、話すときに少し見下ろされるのは気に食わない。
だが今更どうがんばっても10cm背が伸びることはないだろうからあきらめてもいる。
そのまま、なんとなく慰霊碑の前に二人で立って夜風に当たっていた。
秋には虫の鳴く音がうるさいほどに響いていた。
今は、風にゆられて木の葉がざわめく音が時々聞こえるくらいだ。
月は真上まで昇り、星は輝き、闇は静かにそこに横たわっていた。
キィィン、と弾けば音が出そうなほどに張り詰めた寒い夜だった。
「大丈夫か?」
不意に、ぽつりと独り言のようにアスマが言った。
何が、とは言わないし聞かない。
ただ、その言葉が自分に向けられているものであることだけは知っている。
「大丈夫だよ」
だから、横を見ないままぽつりと返した。
時々、思い出したようにアスマは「大丈夫か?」と問う。
さりげなく、何気ない口調で。
アスマはとても優しい男で、少し年下の友人を不器用に心配する。
その優しさは心地よくて、甘えたくなってしまうほどだ。
アスマだけでなく、周りの人たちの優しさに甘えている自分を知っている。
彼らには、どれだけ感謝してもしきれない。
アスマはその筆頭だろうとぼんやり思った。
二人の間に恋愛感情はない。
あるのは、時が育んだ確かな信頼の絆だけだ。
だから、居心地がよかった。
「大丈夫」
「泣くか?」
「泣かないよ」
「そうか」
「うん」
「…」
「ありがと」
「おう」
いつの間にか短くなっていたタバコを踏み潰して、拾って、懐に入れる。
それからまた新しいタバコを出して、火をつけて、思い切り吸う。
アスマが二本目のタバコを吸い終わるまで、そのままずっとそこに立っていた。
会話はない。
でも、長い年月で培われた二人の関係は、その沈黙を心地いいものとして受け取る。
「行くか」
ことさらゆっくりと最後の煙を吐き出してから、アスマはこっちを見た。
無言でうなずくいてから、もう一度慰霊碑を見た。
「また、明日…じゃないか、今日の朝、来ます。…おやすみなさい」
“ありがとう”、“ごめんなさい”から始まって“おはよう”、“おやすみ”までいろいろな言葉を大事にする人だった。
『やっぱりさ、朝起きて最初に「おはよう」って言われると嬉しくない?ああ、今日も一日がんばるぞ、って。…だからさ、目が覚めたら「おはよう」って言って』
にっこりと笑ってそう言ってたあの人を今でも思い出せる。
おはよう、いただきます、ごちそうさま、いってきます、いってらっしゃい、こんにちは、さようなら、おかえり、ただいま、おやすみなさい…
どんなに疲れてても、あの人は絶対に言ってくれたから。
だから、最初は躊躇いながら、徐々に慣れていって、いつしか当然のように口にしていた。
当たり前の生活風景が、そこにはあった。
前を向くと、アスマが立ち止まってオレを待っていた。
無言で並んで、歩き出した。
隣に並んでも、アスマはずっと前を見て歩いていく。
だから、隣に立つオレの表情をアスマは見れないし、オレも前を向いて歩くから隣に立つアスマがどんな顔をしているのかわからない。
それは、意外に安心できるポジショニングだった。
「じゃあね、おやすみ」
「ああ。じゃあな」
それから、途中で分かれて別々に岐路につく。
その時だけ、ちらりと互いに互いの顔を見る。
そっけない別れの言葉以外は何も言わないけれど。
アスマと別れて独りで歩くと、風が痛かった。
あのでかい体が風除けの役割をしてたのだな、と思う。
「明日は…9時に集合だったっけ」
寒さをごまかすように誰も聞かない確認をした。
…実際、集合時間なんてあってないようなものなのだけど。
あのころの想いもまだ心の中に鮮明に残っているのに、前ほどこの胸は痛みを訴えなくなってきた。
それは、今が良くも悪くも満たされているからなのかもしれない。
里は人手不足で任務には事欠かないし、それぞれの道を歩み始めた3人の教え子たちのためにやれることはやっておかなければならないし。
「そういえば、あいつらの始まりもあそこだったっけ…」
下忍合否のサバイバル演習。
あの場所を選んだのは、自分だ。
成長した自分と、大きくなった彼らをあの人たちに見せたかったから。
それが自己満足でしかないとはわかっていても、あの場所が一番ふさわしい気がした。
あの場所でなければ、何かが始まらない気がした。
あの場所でしか、始まらない気がした。
いつか、またあの場所に戻れる日が来るといい、と強く思う。
あの日に戻ることはできなくても、あの場所にみんなで戻ることはできるはず。
あそこにすべての原点がある。
振り出しに戻る、もたまには悪くないんじゃないかと考えながら、家のドアを開けた。
「ただいま」
部屋に入る前にふと見上げた空には月と星が輝いていた。
「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」
もう一度、さっき歌ったのと同じフレーズを口ずさむ。
上を向いても、涙は伝ってくる。
だから、オレが上を向いて歩くのはその先にある空を見るためだ。
そこにある綺麗なものたちを見るために、空を…上を向いて歩く。
見上げた先の星と月と夜空をしっかり目に焼き付けて、オレは暖かい布団を求めて今度こそ部屋へ入った。
バタン
扉を閉める音が自棄に大きく聞こえた静かな夜だった。
歌を歌おう。寂しくないように。あなたが教えてくれたあの歌を。
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